死ぬまで生きるもんズ
今の僕から子供を取ったら何もねぇなぁとモヤモヤして、上司に「今の僕から子供を取ったら何も残りません。一体いつまでこの気持ちは続くんですか?」と聞きました。
上司は「死ぬまでずっと。俺も今そう。」って。
ふざけんな。
花さか天使テンテンくん
子供が産まれてから、人生にハリがなくなった。
いや、子供が嫌いとかそんなんではなくて。
とても好きなんだけども。
からあげくらい好きなんだけども。
自分が中心でなくなったからなのか、何をしていても頭の隅には子供の事があって、なんとなく何事にも集中しきれない感じで。
きっとそういうもんなんだろうね人生。
日曜は大体子供と一緒にダラダラしていて、楽しいんだけど、なんか人生を消耗しているような気がしてならない。
世の中のご結婚されていて、子供がいる人はみんなこういう感覚なんだろうな。
だから唯一の楽しみで晩酌したり、なんとか自分というものを保持するためにゴルフ始めたりするんだろうなぁ。
かく言う僕は家で酒飲みたくないし、ゴルフ始めてもいいけど練習は絶対にしたくないので。
というか練習したくねぇんだよ何もかも。
めんどくせぇじゃん。わしゃ練習せずとも上手くなりたいんじゃ。才種よこせ。
そうするとほら。空っぽの人間が生まれるわけですよ。
それでも他人には害はないし、空っぽなら空っぽで構わないのよね。
だって別に浮気してるわけじゃないし、仕事してないわけじゃないし、子供の面倒見てないわけじゃないから。
外から見た僕はきっとそれなりにいい旦那さんだけれど、僕から見た僕はなんでこいつ生きていられるんだろう人間なんだよね。
自分でも不思議。なんで生きていられるんだろ。
生きてるけど活きてないっていうのが一番しっくりくるな。
上手いこと言ったわ。座布団持ってきて。
あぁ。今日のご飯何にしようかな。シチューにでもするかな。
買い物行ってこよ。死んだ目をしながら。
優しさ
母が偽善で何が悪いの?って言いながら募金箱に金を入れてたことを記憶してます。
偽善でも何でも助かる人がいるならそれでいいし、助かってる人がいるって思うだけでも救われるものでございます。
つまり結局は全部自分のためであって、人の為なんてのはあとからついてくるものなんです。多分。
これは愚痴なんですが、嫁さんのご両親から野菜やらレトルト食品やらが送られてきたことがありました。
僕は嫁さんのご両親が大嫌いなので、嬉しくもなんとも思わないんですが家計は助かるねってそれくらいで。
それでね、送られてきたレトルト食品、半分くらい賞味期限が切れてるんです。
おかしいだろって。逆なんだよって。
喜んで欲しいからアレもコレも送ろうって思ってないんだよ。
アレもコレも余ってるから送ってやるかって思ってんだよ。
そんな中途半端なもんだったら野菜もレトルト食品も何もかも送ってくるなって。ゴミ代かかるだけだろって。
これは、優しさとは到底呼べないと僕は思うわけです。
こういうことを僕は偽善なのだなと思うわけです。
優しさっていうベールに包んで、やってる事は大迷惑だからね。
なんでそんなことをするかって話は単純で、自分がこうしたいっていうのが自分発信じゃないから、です。
余ってるから送ろうじゃダメ。
自分が何かしてあげたいから送ろうじゃないと。
優しいってのは結果。
麻薬
wiennersの新譜を買いました。
ほんと捨て曲がなくて、40分間ずっと鳥肌が止まらくて「うひゃー」とか「まじかー」とか呟きながら聴き入っておりました。
脳内麻薬ってのは結構簡単に出せるんです。
それこそ好きな音楽を聴いたり、映画を見たり、夕焼けが綺麗だったり、あの娘が笑ってくれたり、どんな小さなことにでも脳みそは反応してくれるのです。
秒速5センチメートルっていう映画の中に「日常のどんな場面にも寂しさは溢れている」なんて言うシーンがあるんですが、それと同じくらい素敵で綺麗なシーンも溢れているんです。
そんな素敵で綺麗なシーンを、どれだけ見つけれるかっていうのは自分の人生を豊かにする上で、とても大事なのでございます。
それと同時に、綺麗だな、素敵だなって思えるものをいかに取っておくかっていうのもこれまたとても大事になってくるわけです。
それこそCDだったり、映画のパンフレットだったり、あの娘の書いてくれたお手紙だったり、どんなものにでも心は反応してくれるのです。
世の中はクソで、そりゃあもう間違いなくて、ただただくすぶって、中指立てながら歩く日々があったとしても、そんなクソな世の中にほんの少しだけ優しくしたい。
だから、これを読んでくれているあなたと、あなたと、あなたたちがみんな、幸せでありますように。
青春
僕は高校生のとき、高嶺の花の女の子に憧れを抱いておりました。
好きとか、嫌いとかそんな感情はなく、廊下ですれ違うことがあれば目で追ってしまうくらいの話です。
クラスも1年生の時しか同じにならず、事務的な話を2度3度話した程度のことでした。
そして専門学校を出て、就職し、のうのうと繰り返す日々のある日、突然ミクシーのメッセージが飛んできたのです。
送ってきた相手がその高嶺の花子さんでした。
内容はなんてことなく、誕生日おめでとうとそれだけでございました。
僕はとても嬉しく、運命だと思いました。
頑張ってデートに誘って、どうにかこうにかお付き合いすることとなりました。
ですが、高嶺の花子さんは当時大学生。
僕はのらりくらりの社会人。
ちょっとした感覚の違いは否めませんでした。
かと言って、その距離をお互いどうすることもなく、結果的にはさようならすることとなったのです。
話が変わりまして、僕の実家はいま、空き家でございます。
僕の知らぬ間に、両親が名古屋に部屋を借りたとかで、もぬけの殻になっています。
なので、郵便物等は転送処理がかかっており、名古屋の両親のところに届くわけでございます。
先日、その両親から、僕宛てに手紙が届いてるという連絡がありました。
僕ははっとしました。
とある施設に、当時書いた手紙を5年後に送りますというサービスを行うところがありまして、そこで、高嶺の花子さんと一緒にお手紙をお互いに書いたのでありました。
もちろん忘れていたわけでありませんが、実家はもぬけの殻、僕は東京で一人暮らし。
きっとその手紙を読むことはないのだろうと諦めておりました。
僕はドキドキして、ワクワクして、とにかくその手紙を僕の所へ郵送するよう話をし、それから2日後、手紙が届きました。
送り主の名前に懐かしさを覚えながら、封をあけます。
緊張しながら、手紙も読みました。
大したことは書いてありません。
僕らの通った高校の時の話や、付き合い出してからの会話や、そんなくだらないことが、彼女の華奢な字で綴られておりました。
嬉しくて嬉しくて、何度も何度も読み直しました。
いま、彼女がどこにいて、何をしているかは知る由もなく、連絡先すら分からない状況で、よもや結婚なんぞしてても、それでも、5年前、この手紙を書いている時は僕のことだけを考えて書いてくれているはずなのです。
それが5年越しに嬉しく、いま、どんな生活をしているか気になって気になって仕方ないのです。
青春。ヤツは本当に恐ろしい。